文字っ書きの書き置き

人間の中身を吐露しようというものです

主観可換性

前回の記事、なるだけ平易に、平易に、、、と思ってガリガリ削ったら中身まで洗い流してしまったような形に仕上がったので今回は玄米のふすまを書いていこうかなと。

 

題名の「主観可換性」とは、この記事を書くにあたってまとめた言葉があればいいなと作ったものです。

 

「主観」とは人間の意識、主観性、まさに自らの手足が自らの手足であり、動かそうと思わなくても動くような主観、、、と客観的に観測したことがないのでなんとも説明しにくいですが、みなさんがお持ちだろう主観です(なげやり)。

 

「可換」はいたってそのまま(釈迦に説法でしょうが)「交換可能」という意味です。

 

 

 要するに、先ほど定義(?)した「主観」を交換することが可能だということです。

記憶や身体をそのままに「主観」のみを入れ替えても、第三者から見たその人物は以前と変わりなく、また入れ替わった身体に入った「主観」は『以前からずっとその体の本人であった』と自覚するだろう、という仮説です。

 

記憶が入れ替わらないと「入れ替わってる^~!?」は成立しないということですね。あれはそもそも記憶だけが途切れて入れ替わったのかもしれません・・・。

 

 

それで、なんですが・・・。

 

この観点に立つと、なんびとのいかなる思想・信条、行動、発言・・・をすべて当然のものと(一応は)納得することができます(理解への糸口になるだろうと期待しています)。

 


人は産まれたときから暫くは本能に従って行動します。まず両親を中心として家族の影響のもと小規模な社会を学び、そこから判断力を涵養し自我を持ち、そこからようやく自らでもって判断をしていくようになります。

 

しかしそもそもこの自我こそ、自分で育てることができません。

自我を自ら選択して養えるようになるまでに、それを判断する自我がすでに社会によって決定されているのです。 


我々は我々の方針を自ら決定しているように思われますが、それら方針は自らの経験や性格、周辺状況につねに影響を受けていますし、それらはまた過去の経験、性格、状況に左右されており・・・。遺伝的要素はここではひとまず置いておきますが、突き詰めていくと自らの人格というものはすべて周囲によって形成されたものだといえます。

 

自らのフーリエ級数を解き明かしてみたら身体を除けば社会的要因しかなかった、というところでしょうか(あるいは身体すらも・・・)。

 

 

 よって、仮に自分にとって嫌悪感を催す人物であっても、生まれ出でたときから「主観」を交換していれば同じようにかつての自分に嫌悪感をもたらしているはずなのです。

 

 人間が「生まれる先」を選択できない以上、須らくすべての人間のありさま・なりゆきは当然のことであり、当人の努力が左右するものではありません。

 

 

 

 

 このような訳で私は「人間に罪はない」というように思っております。

 

嫌悪感は生物的にどうしても感じてしまいますが、理性的には納得できますし交流のある立場なら和解の糸口として活用しています。

 

 

 暫く考えてもうまくまとまらない(もしかして:眠くなってきた)のでこの辺にしておきますが、みなさんの一助になればという思いでいっぱいです・・・。